猫とコンパス

 近頃の季節はせっかちだ。
 寒かった季節が長かった分、春はあっという間に過ぎ去って、五月になったばかりというのに連日の夏日が訪れていた。
 汗でワイシャツの襟がべたつく。慣れないネクタイのせいで首周りは苦しく、真っ黒いスーツは見事に熱を溜め込み、着ている時間と比例して不快指数は上昇を続けている。この季節、昇るのは鯉だけでいい。
 リクルートスーツはまるで拘束具。俺ら就活中の学生から個性を一気に奪い去る。曰く、先入観を持たれずに評価してもらえるとのことだ。服装は選考に関係 ありません、なんてことが募集要項に書かれていたとしても、そんなもの信じられるはずあるか。ぎらぎらラメ入りシャツに、てかてかナイロンジャケットなん て着て行ったら、一発で「今後の就職活動のご健闘をお祈り」されてしまう。
 気がつけば、俺はもう二十歳を過ぎていた。受験勉強をして高校に入って、そして今度は大学を目指すために受験勉強をして、大学に入ったと思ったら、たっ た三年で今後の将来を選択しなければいけない。時間なんて、あっという間だ。いつだって将来のため将来のためと言う周りの大人たちの言葉を聞いて、信じ て、ここまで来た。人生、選択の次に選択、そして選択だ。
「学生の時なんて、一番遊べるでしょう?」
 そんなわけあるか!
 授業にレポートにテスト、遊ぶお金を作るためにやりたくもないバイト。時間なんて、なかった。
 夢がないわけじゃない。趣味のギター、これで食べていけたらどんなにいいことか。
 でも、人生全てを賭すほどに好きなわけでもない。ならば、安定したルートを進むことこそ最善。だからこうして、働きたくもないのに就活をしている。人生の、選択をしなければならない。
 俺は今、大学近くの小さな公園にいる。周りは滅多に人も車も通らない道だから、人気が少なくて、静かで、そして何よりも居心地が良い、俺のオアシス。
 冬に就活が始まってから、俺はこの公園に足を運ぶ機会が多くなっていた。授業の後の説明会の前、面接の後の授業の前、その空いた時間を利用して、俺は公園のベンチに腰掛けてゆっくりと疲れを癒す。
 ふう、とため息。すると、ひょこん、と草むらから三毛猫が現れた。この公園には何匹か猫が住んでいる。こいつは特に人懐っこくて、よく俺の相手をしてくれる。猫はいい。自由で、奔放で、気楽に毎日過ごしていけそうだ。
「よぉ、ミケランジェロ」
 三毛猫だからミケランジェロ。ただの洒落で勝手に名付けたネーミングだ。
「元気だったか?」
 相手をしてくれるって言ったって、相手は所詮猫。たまにみーと鳴くことはあれど、ほとんどの場合は適当に伸びをしたり、あくびをしたり、暖かい場所を探してお昼寝しているだけだが。
「ぼちぼちですぜ、兄貴」
 ……俺、疲れているのかな。

 ◇ ◇ ◇

「腹減った――」
 ミケランジェロは、そう言って大きな大きなあくびをした。
「――けど、ねむい」
「……お前、喋れるのか?」
「なんだい兄貴、不思議そうに」
「いや、不思議だよ、猫が喋るなんて聞いたことがない」
「そりゃ猫だもの、言葉ぐらい喋るさ」
「その理屈はおかしい」
 ミケランジェロは、ごろん、と日の当たる場所で横になった。実に気持よさそうな顔をしている。きっと気持ちいいだろう。何とも羨ましい。
「兄貴も最近お疲れみたいだな」
「よくわかるな」
「わかるさ、いつも見ているからな」
 猫にまで見破られるとは、相当疲れた顔をしているみたいだ。
「どうしたんだ兄貴。二日酔いかい? マタタビはほどほどにしておけよ」
「お前はいいな、気楽そうで」
「うん……気楽? そう見えるかい?」
「実にそう見える」
 すると、ミケランジェロはのんびりと四本足で立ち上がった。
「それがな、兄貴。なかなか猫ってのも大変なんだぜ。ずっと寝てばかりいたいが、お腹が空いちゃうんでそうもいかない。今晩は集会があるから、ちゃんと出席しないといけないし、ご飯食べないと、ぐーぐーお腹がなって集会どころじゃなくなるんだ」
「お前、その割にはよく猫缶をもらっているじゃないか」
 ミケランジェロは、この付近に住んでいるらしい年配の女性から、よく猫缶をいただいていた。俺が知る限り、ほぼ毎日。
「あんなもの、腹の足しになんないよ。妻もいれば子もいるんだ、家族みんなで食べていなきゃいけない」
「妻って……お前、オスだったのか」
 三毛猫のオスだなんて、とても珍しい存在じゃないか。
「そうだよ。だから兄貴はミケランジェロなんて名前で呼んでるんじゃないのかい?」
 洒落で名付けたと言ったら、こいつは怒るだろうか。そもそも理解するだろうか。面倒くさそうなので黙っておくことにした。
「妻は嫌がっていたよ。私、女の子なのにダヴィンチだなんて……って」
「ダヴィンチ……ああ、あいつはメスだったのか」
 ダヴィンチとは、やはりこの公園に出没する白い猫だった。あまり姿は見かけないが、野良猫のくせにまるまると……それはもうまん丸に太って、実にふてぶ てしい態度でベンチの上に鎮座なさっていたりする。ルネサンス繋がりで適当に名付けたといったら、やっぱり怒るだろうか。ルネサンスなんてきっと理解して くれないと思うし、面倒くさそうなのでやっぱり黙っておくことにした。
「難しい顔しすぎだよ兄貴」
「そうか?」
「ここのところずっとだ。なんだか知らんが、楽しくなさそうだぜ」
「楽しくないさ」
 就活を初めて数ヶ月。説明会にエントリーシートに面接の日々。自分を売り込むべく、ちっぽけな自分のカケラをかき集める。
 ――貴方の強みはなんですか?
 ――最近気になったニュースはなんですか?
 ――自分を動物に喩えると何ですか?
 知ったことか!
 スーツで身を包み、まともに操ることも出来ない敬語を使い、本当の自分を何重にも覆い隠して、その先にあるものがどうして楽しいのか!
「もうこの年齢で、この先の人生を決めなきゃいけないんだ。自分に何ができるのかもわからない。自分がやってきたことだってわからないのにさ」
 不安なのだ。社会に出ることも、働くことも。
「猫はいいな」
 呟く。気楽に生きている様子がなんとも羨ましくなった。のんびりと眺めているだけでゆっくりと時間が流れていく。
「兄貴、さっきも言ったけど、猫だっていいことばかりじゃないのさ。人間は人間で大変そうだから、どっちもどっちだと思うけど――」
 ミケランジェロはふわぁ、とあくびをしてから言葉を紡ぐ。
「――人間は何にでもなれるからな。猫は一生猫のままだ。もしくは猫又になるぐらいしか道はない」
 それは、ミケランジェロの口から飛び出した、重い空気を含んだ、一言だった。
「お父様、おなかがすきました」
 てて、と小さな三毛猫が駆けてきた。ミケランジェロをそのまま小さくしたような外見だが、目がくりくりしていて愛らしい。顔立ちは整っており、凛々しい表情を浮かべている。
「お前の子供か?」
「ああ、せがれだ。ほら、挨拶しなさい」
「初めましてお兄さん。いつも父がお世話になっております」
 ひょこり、と首を下げる。多分お辞儀のつもりだろう。両足を前についているから、なんども礼儀正しく見える。いえいえ、と返事しておく。
「それじゃ兄貴、そろそろ家内も待ってるようなんで失礼するよ」
「お、おう」
「お父様、ボク、このまま公園で一生を終わらせる気はありません」
「せがれ……さっきの話、聞いていたのか?」
「ボクは、まねき猫になりたいんです」
 子ミケランジェロは、必死に言っていた。
「せがれよ、まねき猫は置物なんだって何度言えば……」
「それでも、ボクはまねき猫になるんです!」
 むー、と唸る子ミケランジェロ。俺は、そんな無垢な表情の中に、確かな信念を見た。ずきん、と胸が痛む。
「せがれ、無理なものは無理なんだ。それよりここでのんびり暮らしていこうじゃないか」
「いつもお父様はそんな事ばかり言って! イヤです、ボクはまねき猫になるんです! お父様のわからずにゃ!」
 そう言い切って、子ミケランジェロはまた奥の草むらへと走り去っていった。気まずい雰囲気と共に残された俺たちは、お互いにお互いの顔を見合った。
「……本当にお前の子か?」
「……兄貴、ごめんな。取り込んでるんで、今日は失礼するよ」
「ん、俺もそろそろ行かないと。面接があるんだ」
「兄貴」
 そしてベンチから立ち上がった俺のことを、ミケランジェロが呼び止める。
「無理するなよ」
「――うん」
 頷く。そして、俺は公園を出た。これから赴く先は、社会という名の戦場だ。

 ◇ ◇ ◇

 海に出た。自慢の船で。
 マストを張って、イッツオーライ。順風満帆。
 素敵な航海になりそうだ、なんて言ってみたりして。
 風とともに進み、波と出会う。
 ウミネコが前を横切る。
 黒い雲が現れて、叩き付けられるような波に襲われる。
 みしり。船尾が軋む。
 面舵いっぱい。
 軋む、軋む、破れる、穴が開く、沈む。
 自慢の船は、ハリボテだった。
 海に投げ出される。
 息が詰まる。
 声が出ない。
 心臓を鷲掴みにされる。
 精神を抉り取られていく。
 息が出来ない。
 もがく。水面へ向かって。新しい酸素を得ようとして、もがく。もがく。もがく。もがく。もがく――!
 ――ぷつり。
 それは、平衡感覚の途切れた音。
 俺は、海底に向かって泳いでいることに、最後まで気付けなかった。
 溺れた。
 海の中で。
 溺れ、ぶく、ぶくぶく、ぶくぶくぶくぶく……。

 ◇ ◇ ◇

「やあ兄貴」
 次の日、公園に行くとミケランジェロは、日向で片足をあげて、あられもない姿で毛づくろいをしていた。
「……俺は猫になりたい」
 思わず、そんな言葉が口から漏れてしまった。すると、目があった。
「お疲れさま」
 ミケランジェロは、その姿勢で静止したまま言った。
「ん」
 定位置の、ベンチに座る。ミケランジェロは、体中をぺろぺろし終えると、ふわぁ、と大きなあくびをして、ごろんと丸くなった。
「眠そうだな」
「昨晩は集会だったからね」
「テーマは何だい?」
「煮干しの食べ方についての議論だよ。煮干しは逃げないから尻尾から食べてもいい派と、やはりそこは猫として頭から食べるべき派の対立かと思いきや、一口 でまるごと食べる派が出てきてね。普段は猫かぶっている上品なメスたちもヒートアップして、一口で食べる派ってことをカミングアウトしちゃったから、結構 な数が揃っちゃったんだよ」
「それは難儀だね」
 なんだろう、このほのぼのとした世界は。
「最後は、投票で勝ち負けを決めるんだ。野良猫は煮干しなんて食べないからどっちでもいいんだけど、家内が身重で出席できないから二匹分投票しないといけなくて責任重大なんだ」
「身重……って、ダヴィンチは妊娠しているのか」
「いや、単に太りすぎて動けないだけなんだけどね」
 言葉通りすぎる意味だった。
「そういえば、あの後、子ミケランジェロはどうなったんだ?」
 思ったことを口にしてみる。
「子ミケ……ああ、せがれのことか。昨日は結局口を利いてくれなかったよ。ご飯は美味しそうにたくさん食べていたからから安心だけど。まねき猫になりたいだなんて……困ったものだ」
「俺はちょっと羨ましいけどな」
「羨ましい?」
「いいじゃないか、夢があって。到底叶うはずもない夢だって、望むのは自由だから」
 俺にもあった、そんな時期が。ウルトラマンになりたい。漫才師になりたい。医者になりたい。弁護士になりたい……社会人になりたい。それは果たして、夢なの、か。
「でも、猫にとって夢を見ることは危険なんだ」
 ミケランジェロは、いつになく真面目な表情を浮かべた。
「野良猫で住むところがあって、しかも定期的に餌をくれる人がいるなんて、そんな恵まれている猫なんて滅多にいないのさ。カラスや車にも気を付けないといけない。交通事故は、本当に危険なんだ」
 大きなあくびをまた一つ。そのせいで、真面目なのか真面目じゃないのかよくわからなくなってしまったが……。
「だから、せがれからしたら、兄貴が羨ましいんじゃないかな」
「何?」
「兄貴は何にでもなれるからさ」
 ミケランジェロのその一言に、何かの糸が切れた。
「……知ったような口を利くなよ……人間だって何にだってなれるわけじゃないんだ!」
 つい、大きな声が出てしまった。こんなことを言ったって意味が無い事なんてわかっている。わかっている、なれないんじゃない、なろうとしないだけだ。選 択を恐れて逃げてばかりいて、惰性で挑んで、コウカイして、そのたびに落ち込んで、猫に怒鳴っている……馬鹿じゃないか!
「……ごめん兄貴」
「いや、俺こそ、悪かった」
「……お互い、羨んでも、仕方ないんだね」
「……そうだな」
 そして、ミケランジェロは後ろを向いてしまった。しばらく、そのまま時が過ぎた。ミケランジェロはしきりに顔を洗っている。その背中がとても悲しそうに見えて、そして同時に、胸が苦しくなった。
「帰るよ」
 立ち上がる。ミケランジェロはまだ顔を洗っていた。振り返ってはくれなかった。

 公園の出入口の塀に、白い猫が座っていた。ずんぐりと太った真ん丸なその姿は、ミケランジェロの妻、ダヴィンチだった。目線と同じ高さにいるせいか、やたら威圧感を覚える、そんな姿である。
「あの人も悪気はないのよ」
 ダヴィンチは言う。俺は、ああ、と頷いた。
「あの子のこともあって、ちょっと参っているの」
「代わりに謝ってもらえるかな」
「気にしなくても大丈夫よ。きっとすぐ忘れるから」
 ダヴィンチのヒゲがぴくぴくと動いた。
「今日は顔がむずむずして洗いたい気分ね。面倒だから洗わないけど」
 確かに、その体格では動くのも面倒くさそうだ。
 そのまま立ち去ろうとすると、ねえ、とダヴィンチが呼び止めた。
「降りられなくなっちゃったんだけど、助けてくれない?」
 俺は無言で、ダヴィンチの身体を持ち上げて降ろした。予想通り彼女はずっしりと重かった。ぴょん、と地面に降り立つと、鞠のようにちょっと弾んで止まった。
「ありがとう」
「どういたしまして」
「貴方は良い人だから、きっと上手くいくわ」
「そうだといいんだけどね」
 本当に。

 ◇ ◇ ◇

 翌日、雨が降った。猫が顔を洗うと雨が降るというのは本当だったのかと思わず感心してしまった。
 こんな日でも、就活はある。
 スーツを着る。ネクタイを締める。じめじめして蒸し暑い。鞄の中に履歴書が入っているかどうか確認する。無い。見つからない。探す。鞄の中には無い。な らば机の上か。確かにファイルに入れた。机の上を見る。あった。顔を上げる。机の上に立ててある、高校時代の写真の自分と、目が合った。
「――」
 履歴書の写真に目を落とす。大人になってしまった。たった三年。されど、歳月は確かに俺を大人へと変えていた。
「俺は――」
 何をしたかったんだろう。
 何を選択してきたんだろう。
 どうしてここまで連れてこられてきてしまったんだろう。
 ――ボクは、まねき猫になりたいんです。
 ――それでも、ボクはまねき猫になるんです!
 あいつの目には、何が視えているのだろう。
 あの瞳は、写真の中の俺に、確かに存在していたのに。
 どこで落としてきたんだろう。
 どこで……。
「――行こう」
 傘を差した。
 無くした武器を探しに行こう。
 きっと、そこに落ちている。
 いや、必ず。

 ◇ ◇ ◇

 雨の公園に来るような人間なんて、きっと俺しかいないと思っていたが、公園の前には二人の男がいた。雨具を着て、アスファルトの上でしゃがみこんでいる。
 何をしているのだろうか。傍から見たら不審者にしか見えない。男の一人が振り返りそうになり、思わず身構える、が、男は再び地面に目を落とす。雨の音にまぎれて、大きなため息が聞こえてきた。
「――っ」
 男が少し体勢を変えたせいで、目に、その姿が飛び込んできた。二人の男は、ぐったりとして動かない猫を、ビニール袋に入れていた。地面に広がる色は紅。
 紅、猫、まさか。
「兄貴」
 声をかけられた。下を見ると、雨に濡れたミケランジェロが、悲しそうな顔でこちらを見上げていた。
「前にも言ったけど、交通事故は、本当に危険なんだ」
「ミケランジェロ……泣いて、いるのか」
「猫は泣けないよ」
「嘘つけ、涙が見える」
「これは雨だよ」
「――あいつとは、知り合いだったのか」
「うん、ここらで知らない猫はいないから」
「……そうか」
 ざあざあ、と雨が勢いを増す。ミケランジェロの身体は雨に濡れて、綺麗な三色の毛がべったりと垂れ下がっていた。俺は、傘の中に彼を入れてやった。ミケランジェロは、公園に向かってとぼとぼと歩き出した。

「猫は、死体を人間には見せない」
 公園の中、木々の下でミケランジェロはぷるぷると身体を震わせて水気を弾きながら言った。そこには、白い毛をふかふかさせてどっしりと構えるダヴィンチと、ちょこんと置物のように座る子ミケランジェロがいた。
「でも、交通事故は別だ。猫は、交通事故には勝てないんだ」
「お互い、羨んでも仕方なかったな」
「その通りだね」
 言って、しばらく無言のまま時が過ぎる。雨はその勢いを弱めることなく、公園に降り注いでいた。涙雨……。
「せがれよ」
 ミケランジェロが、ゆっくりと父親の声で言った。
「わかっただろう。生きていくことだってこんなに危険がたっぷりなんだ」
「お父様」
 子ミケランジェロは俯いていた。小さな身体をぷるぷると震わせている。それは畏怖の念、か。
「――でも」
 否。それは。
「ボクは、それでもまねき猫になります」
「せがれ……どうしてそこまでして」
「それが夢だからです。この世に生を受けてから早九ヶ月。ボクは、ずっとまねき猫になる夢を見続けてきました。餌をくれるおばさまが持っていた、ケータイで揺れるあのまねき猫ストラップを一目見た時から、ボクの気持ちは揺るぎません」
「せがれ……」
 瞳に浮かぶ、憧れ、希望、そして……。
「子ミケランジェロ、一つ訊いていいかな」
 俺は、彼に話しかけていた。胸の奥にある、このもやもやとした重く黒い煙の塊のような想いを、吐き出さずにはいられなかった。
「君は怖くないのか、道を選ぶことが」
「大丈夫です」
 子ミケランジェロは、即答した。その瞳に浮かんでいるのは、間違いなく、信念。
「必ずまねき猫になるって、決めましたから。ボクは、必ずなれると信じているんです」

 俺の中にあった黒い塊が蛇のようにうねり、宙を舞う。そしてそれはやがて霧散し、大気へと消えて行く。晴れた心の奥底に見えたのは、熱い炎の揺らぎだった。
 拳を握る。右手にはしっかりとした感触があった。その手に握られていたのは、無くした武器――コンパス。

「うむむ……どうしたものか……」
 ミケランジェロが唸っている。やはりそう簡単には納得できないようだ。そんなミケランジェロのしっぽを、ダヴィンチがちょいちょいと掴んだ。
「あなた。もうこの子ももう大人なのよ」
「お前……」
「やりたいように、やらせてあげましょう」
 それは、母親としての愛情に満ち満ちた一言。
「……にゃあ」
 ミケランジェロは、しばし眉を曇らせた後、ぐるぐると辺りを回り、そして悩みきった末に、こくり、と頷いた。
「お父様! 許してくれるのですか!」
 子ミケランジェロが、今までに見たこともないほどの笑顔を浮かべた。ミケランジェロはうむむ、とやはり唸りながらも、それでもはっきりと口にする。
「猫に二言はない」
「にゃ!」
 子ミケランジェロはその場でステップを踏んだ。
「そうと決まれば、早速支度します!」
「おいおい、雨が降っているんだぞ。もっとゆっくりでも……」
 気付いたとき,雨は止んでいた。雲間から太陽が顔を覗かせていた。柔らかい日差しが一直線に降り注ぎ、木漏れ日がまるで光の道のように、公園の外に向かって伸びていた。
「さて」
 俺もそろそろ行こう。いつまでもここにいたって仕方がない。
「兄貴、もう行ってしまうのかい?」
「ああ、行ってくるよ」
 そして家族に背を向け、公園を後にしようとする。
 これから赴く先は――
「兄貴」
「ん?」
「無理するなよ」
「――うん」
 ――自分という名の、戦場だ。
「お兄さん、必ずまた会いましょう!」
 子ミケランジェロの声が聞こえてきた。思わず頬が緩んだ。
「ありがとう」
 恩人に、礼を告げる。
「じゃ」
 あとは去るのみ。
 ゆっくりと歩を進める。公園の外へ。さあ、航海の再開だ。
 大丈夫、手にはコンパス。
 もう選択を、恐れない。

 ◇ ◇ ◇

 月日が経った。
 同僚と別れ、夜の街を歩く。背負うのはギター。これからスタジオに行って、来週のライブに備える。
 今の姿が子供の頃になりたかった自分の姿がどうかはわからない。昼間はテレビドラマで見るような典型的なサラリーマン。でも、怒鳴る上司もいなければ、接待ゴルフなんてものもない。
 俺は選択をした。些細な選択。社会人をやりながら、そのかたわら、少ない時間をかき集めて趣味の音楽を続ける。それを決めた時、運命の糸はするすると上 から降りてきた。それを手繰り寄せて、今の俺はここにいる。後悔はない。それに、これからも後悔だけはしないように生きていこうと思う。これが最善かどう かなんてわからない。きっと、猫にだってわかるまい。
 スタジオに入ると、いつものメンバーたちがすでに待っていた。よお、おせえよ、ワルい残業だった、社会人は大変ですねぇ、なんていう軽口を交わし、準備にとりかかる。
「……それは?」
「ん?」
 ベース担当が持っていたケータイに、光る物がぶら下がっていた。見れば、それはまねき猫のストラップだった。
「これって……」
 それは、間違いなく、子ミケランジェロの姿だった。見間違えるはずもない。あの、凛々しい表情と、くりくりとした愛らしい瞳。
「気になるのか? これ、俺の地元の商店街で売っているんだぜ」
「商店街で……?」
「ああ、最近商店街に猫が住み着いてな。そいつの、手をまねき猫みたいに振る仕草が周辺のブームになっていて商店街が繁盛してんだ。今じゃすっかり地元の マスコットでさ、そいつをモデルにしたまねき猫を作ったり、ポストカードを作ったりと、もう今やそいつのおかげで大盛り上がりさ」
「――」
 これが、必ずなれると信じた結果、なのか。
「どうした?」
 彼の夢は、いつしか現実となっていた。
 不可能なんて、そこにはなかった。
 彼は実現させてみせた。しっかりと掴んでみせた。
「俺は――」
 本当になりたかった自分になれたのか。
 もしかして、自分を誤魔化しているだけではないのか。
 ただただ、流されているだけじゃないのか。
 本当に、本当に後悔はないのか。
 手のひらを広げる。そこにはコンパス。針はくるくると回り続ける。
「おいおい、どうした?」
「なあ」
 メンバーに向かって、顔を上げる。
「……今度のライブ。最後にしよう」
 俺が放ったその一言に、メンバーたちは特に驚かなかった。仕事が忙しくなるにつれて練習時間も取れないようになってきた。限りある時間の中で、俺たちは 何とか上手くやっていた。しかし、それももう現実味を失ってきたところだった。だから、彼らの納得したような少し残念そうなその表情は、もう既に言う前か らわかりきっていたことだった。
「だから――本気でやろう。これがアマチュア最後のライブだ」
 短い沈黙。そして驚愕。
 続いて、歓声が、湧いた。

 ◇ ◇ ◇

 ある公園で、三毛猫と白猫の夫婦が日なたぼっこをしていた。彼らにとって考えていることはいつも同じ、ご飯のことだった。
 くわぁ、と白猫があくびを浮かべると、三毛猫にもそれが伝染る。たくさん寝ているのにまだ眠かった。ごろん、と丸くなると、そのまま眠ってしまった。
 眠っている二匹の前に、ちち、とハツカネズミがやってきた。
 物語は一つの幕を閉じる。しゃみしゃっきり。

 終

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